優しさの究極解が表現された作品。湊かなえ『ポイズンドーター・ホーリーマザー』「優しい人」読んだ感想、考えたこと ~中編~
この本の中で、とても共感した作品がありました。
それが「優しい人」という物語です。
この本の書評、前編とは打って変わった体裁になりますが、
読んで共感したこと、思ったことが多かったこの物語だけ一つの記事にしたいと思います。
前編はこちら↓
湊かなえ『ポイズンドーター・ホーリーマザー』読んだ感想・考察など ※ネタバレあり ~前編~ - ぽてちの本棚
「優しい人」
登場人物
奥山友彦:ただのコミュ障の男。樋口明日実に殺害される。
樋口明日実:「優しい」とレッテルを貼られた女性。人に無関心だから誰にでも優しくできる。
*
みなさんは、「優しさ」について考えたことがあるでしょうか。
私はよく考えます。
これまで考えてきた「優しさ」が、恐ろしいほどにこの物語に詰め込まれていました。
樋口明日実は、母親によって「優しい子」になれと躾られ、周囲から「優しい子」というレッテルを貼られるような子供に育てられてしまいました。
そう。優しい子に育てられてしまったのです。
「優しい」という言葉は、美しい呪いのようなものです。
かといって、人に優しくすることは、一般的には悪いことではありません。
躾けられたのであれ、自分で見つけた生き方であれ、
「優しさ」を意識して、「優しい」ことを行っていると、この人は優しいというキャラクターが確立されます。
「〇〇ちゃん/くんって優しいよね」
人に優しくしようと思って行動して、結果このような言葉をもらってうれしくない人はいますか?
いませんよね。
それが嬉しくて、「優しい」自分をどんどん前に出してしまう。
それがたとえ偽善であったとしても、
「優しい人」になりたいと思って、行動してしまう。
それが自分自身を苦しめることになるとは気づかずに。
そうして確立された「優しい人」というキャラクターは、
柔らかくゆるやかにその人自身を苦しみの渦に追い込むのです。
明日実は、昔から誰にでも優しくできる女の子でした。
手をつないで登校するのがルールなら、毎日鼻水を垂らして登校している男の子とも毎日手をつないだし、
胃が弱くて給食を食べた後にしょっちゅう嘔吐する男の子がいて、その吐瀉物の掃除係に任命されても文句ひとつ言わなかったし、
幼稚園の頃から同じ団地に住む、同性から嫌われるタイプの女の子と一緒にいても全く苦じゃありませんでした。
この明日実の姿は、私の中学・高校時代をみているようでした。
おいぽてち、お前はこの記事で自分が優しいとでも言いたいのか?
と思う人もいるかもしれません。
その質問には、肯定も否定もしないでおきましょう。
というのも、中学・高校時代の私の生き方の軸は「人に優しくすること」だったからです。
優しかったかと聞かれたら自信はありませんが、優しくないわけでもなかったと思います。
誰にでも話しかけるし困っている人には手を差し伸べる、一見すると「優しい」女の子だったかもしれません。
*
確か高校3年生の時、周囲からよく思われていなかった(とても最低ですが、容姿に関してブスとか言われていた)女の子のお母さんからお礼を言われたことがありました。
「うちの子とも優しく話してくれてありがとう」と。
その時はなんだか恥ずかしいような、うれしいような気持ちでした。
今思えばお母さんにこんなことを言わせるほど周囲の人間が腐っていたということになりますが。
そのあと、ふと「どうして私は人に分け隔てなく接することができるのだろう」と考えたことがあるのです。
当時、嫌われるのには慣れていたし、
自分がまたゴミ扱いされても失うものは何もないから、せめて誰かを救える人でいたい、という思いで「優しくなる」ことを生きる軸にしました。
でも、私はそれまでに3回くらい人間不信に陥っている人です。
私は心のどこかで人間という生き物を信じていませんでした。
信じたところで裏切られるから、そもそも信じない方がいい。
その方が、精神も擦り減らないし、苦しい思いもしなくて、ラク。
そんな感情で、いつのまにか、「すべての人に無関心」になっていたのです。
「すべての人に無関心」だから、その場しのぎの優しさを与え、「優しい人」というキャラクターを作ってしまったのではないか。
この答えにたどり着いたのです。
私がふりまく「優しさ」はうわべだけを取り繕った「優しさ」で、
その中心には、実は恐ろしいほどに自己本位な本当の姿があると気づいたのです。
明日実は多分、人間って存在に興味がないんだと思う。深い関係を築くっていう前提がないから、逆に、誰にでも親切にできる。近寄ってきた人間は受け入れる。差し出されたものは受け取る。だけど、俺も含めて、相手はそう思っていない。
「優しい人」にとっては、「優しい人」というキャラクターが確立されてからが本番です。
どんなに優しいことに気を使っていても、自分以外の他人にとってはその優しさが当たり前になっているのです。
だから、優しくない一面を見せたときに勝手に「裏切られた」と思われてしまう。
「どうして、これまで優しくしてくれていたのに」と。
我慢の緒が切れて素直に「嫌だ」と声をあげたときに、
「優しい子」というイメージが途端に崩れてしまう。
その「優しさ」がどれほどの我慢の上に成り立っているかなど想像もしないから。
実は「優しさ」の価値というものは、「優しい人」というレッテルを貼られた人が思っているよりも、とても低いところにあるのだと思います。
それほど「優しさ」というものは脆く、儚いのです。
優しさとはさりげない
それを知らぬ人がまた人を恨む
一度「優しい人」になってしまったら、これからどんなことがあっても「優しい人」でいなければならないのです。
どんなに嫌なことがあっても。
なぜなら、周囲が「優しい人」と決めつけているから。
そんなに優しい人じゃないのに。
ただ、人に無関心でいるのが楽なだけなのに。
その場しのぎの優しさは、本当は優しさではない。
そう気づいてから、「優しい」と言われると「優しくないよ…」と思ってしまいます。
「明日実は優しいから」
久々に聞いた言葉だったが、昔と同じように素直に喜ぶことはできなかった。ふわふわのシュークリームを食べたと思ったら、クリームの中に砂利が混ざっていたような。そんな不快さが込み上げただけだ。
思いやりとか、人を傷つけないこととか、そういうことはもちろん大切だし、
自分の子供が生まれてきたときにも教えると思います。
でも、「優しさ」の苦しさを知っている母親は、きっと優しい子になれとは言いません。
「優しさ」の強要は、優しさではなく、呪いです。
これまた厄介なことに、優しいことは一般的には「いいこと」なのです。
だから、「優しさ」という強い光の下にある「我慢」は、闇を一層深くするのです。
そして「優しさ」のもつ美しい呪いは、今日もまた誰かを苦しめているのでしょう。
世の中は、全体の1パーセントにも満たない優しい人の我慢と犠牲の上において、かろうじて成り立っているのだと思います。
今回この記事に綴ったのは優しさの究極解の1つにすぎないと勝手に思っています。
「優しさとは何か」
この問いに対する答えを見つけるのは、まだまだ先になりそうです。
みなさんも一度、自分の「優しさ」の答え合わせをしてみませんか。