この世界の色の不思議
今までの人生の中で、「色」についてこんなにも真剣に考えたことがあっただろうか。
先日、色について少しだけ学ぶ機会があった。
ご存知の方も多いと思うが、「色」というのは「モノ」が吸収できなかった光のことであり、モノ自体がその色を持っているわけではない。
例えば、みかん。みかん=橙色という印象であるが、私たちが見ている橙色は「みかん」という物体に吸収されずに反射した色なのである。
言い換えれば、「みかん」そのものが持つ色は「橙色以外の光の混合色」であるということだ。
私はこの話を改めて聞き、自分が見えている世界がわからなくなった。
この世界においてみかんを「みかん」たらしめているのは紛れもなく「橙色」であるが、この「橙色」は「みかん」そのものには含まれていない。つまり「みかん」そのものは「橙色ではない」。
私はあのオレンジ色の甘酸っぱい果物をみかんと呼んでいて、オレンジこそがみかんのアイデンティティだと思っていた。
しかし、私たちが見ているのは吸収されず反射された光。みかんはオレンジ色を持たない。
じゃあ私が見ているみかんって何色なんだ?
みかんだけじゃない。
全ての物体が光を反射し、物体に吸収されなかった、つまり反射した光がこの世界を構成している。
私が見ているこの世界は果たして本物なのか?
でも、もしこの世界が偽物だとして、私たち人間にとっては私たちが見えている世界(=可視域)が絶対であり、それ以上もそれ以下も知り得ない。
そして、光を吸収したモノの本当の色を(簡単には)知ることもできない。
だから、「この世界は本物である」という命題を(少なくとも色視点では)崩しうる反例がみつからず、「この世界は偽物である」というのは一つの可能性、仮定で終わってしまう。
もし人間の可視域がもう少し広かったら?
もし人間の可視域が今とは別の場所に存在していたら?
少なくとも、今見ている世界の常識は、常識じゃなくなるだろう。
今見ているモノの色も。色の種類も数も。
この世には誰も見たことがない色が確かに存在していると思うと、少し不思議で、わくわくして、でも少し切ない。
だから、私たちが見ているこの世界がきっとすべてではないと思う。
日常生活でもそう。
目の前に確かに世界は存在するので、見えていることがすべてだと思い込んでしまう。
でもそこには同時に、みかんに吸収された光のように「見えないこと」も潜んでいるのだと思う。
私たちは、みかんに吸収された色は見えない。これは生態上仕方のないことである。
でも、日常生活に吸収された「見えないこと」の中には、見ようと思えば見れることもある。
それは例えば、今見ている世界を少し視点を変えてみてみること、今見ている世界がどう構築されたのか考えること、そういう角度から見えることがある。
生物学的な人間の「可視域」は広げられなくても、自分自身の「可視域」は広げられるのではないか。
光の反射が映し出す世界は、そんなことを考えさせてくれた。
p.s.人の気持ちは、どんなに頑張って見ようとしても見えません。
以上、お読みくださりありがとうございました。